キートラ
〜13〜




ラーレディルが回り道をした時とほぼ時を同じくして、エフルク達は再出発の準備に追われていた。

『では、お前達はここに留まれ。後で迎えを寄越してやる』
『はっ』

騎獣を失った兵達が、心細そうな顔を隠しながら従者の男の命令に頷く。

紅葉は焚き火の隣に座りながら、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。

先程からずっと、苛立った様子のエフルクが辺りをうろうろと歩き回っている。
いつ怒りの矛先が自分に向けられるかと気が気ではない。

辺りは嘘のように静まり返っていた。
だからこそ、崩壊した崖から時折岩塊が転がり落ちる音がよく耳に届く。

エフルクが歩き回り、従者の男が指示を出している以外は、皆がショックを受けたように口を閉ざしていた。
そして、岩が落ちる音がするたびにびくりと体を強張らせる。

誰もがこの場所を一刻も早く離れたいと思っていた。

しかし獣車は車輪が外れてしまい、修理に時間が掛かってしまう。
やむを得ず獣車と騎獣を失った者達をここに置き、騎獣に乗って少人数で屋敷に戻ることになったが、おかげで護衛は半数に減ってしまっていた。
夜行性の獣も少なくはない中、不安な旅となる。

取り残される者も、屋敷に戻る者も皆一様に、不安に疲れた顔をしていた。

『では、出発いたしましょう』

男は二頭の騎獣の手綱を引いて焚き火の傍にまで来ると、一頭にエフルクを乗せ、もう一頭を引いて紅葉の元に歩み寄る。

『僭越ながら巫女様はわたくしめが』

従者の男が、片手に手綱を持ったまま紅葉に手を差し出した。
紅葉が立ち上がると、男は騎獣を地面に伏せさせ、紅葉に乗るようにと促す。
紅葉が騎獣の背に跨ると、男はその後ろに乗り、出発の合図を出した。

草原の中へと護衛の二人が走り出し、その後にエフルクと紅葉を乗せた騎獣が続く。
後ろに三人の護衛が付き、計八名と七匹が草を掻き分けながら夜の草原に姿を消した。

そして紅葉は騎獣に揺られながら夢を見る。
長い未来の始まりを……。










――領主直轄地コーヴェラ

草原が随所に広がるコーヴェラ領地の中で最も栄える街だ。

緑が多いこの地は生息する獣も多い。
食料や衣料品の材料として獣が捕えられたり、飼育されている。
また、騎獣にする為に獣を生きたまま狩ってくる者や、狩人から金を受け取り調教する者、その飼い慣らされた獣を売ることを生業にする者達も多かった。

農民の素朴さと狩人の無骨さが共存するこの領地を治めるのが、エフルク伯だ。

広大な土地に構える屋敷は迷うほどの広さを備え、庭は毎日のように数十人の庭師が手入れに励んでいる。
屋敷に仕える使用人達は屋敷の掃除で一日を追われ、エフルクの趣味で集められた仕立て屋や芸術家が、日夜を問わずに出入りをしていた。
芸術家の間には、エフルクに気に入られる事こそが、成功する第一歩だとまで囁かれていた。

そんな領主邸の前には、おおよそエフルクの客には相応しくない身形の男が、身形のいい男をねめつけていた。

『隠してるんじゃないだろうね?下手に嘘をついて、後で分かったらディル様が黙ってないよ?』
『滅相もございません!戻るという知らせは届いているのですが、伯はまだお戻りになっておりません』

見るからに応対している男の方が身形はいいのだが、ぼろ服を纏った青年は自分の方が優位であるかのような物言いと態度を崩すことはない。
青年は焦る男をじっと観察しながら、眉を顰めた。

(おっかしいな。いくら僕が近道したからって、途中から僕の騎獣は鳥目のせいで大分スピードは落ちてたのに。とっくに抜かされてていい時間帯のはずだ)

青年ルサベルクの騎鳥は、夜になると視力が落ちてしまう。
主人であるエフルクの不在を知らせたエフルクに仕えるこの男が、自分に嘘を言っている様子もない。

『じゃあ、ハーナシェル殿下の使者は?』
『なんのことで御座いましょう。都で何か火急の知らせでも御座いましたか?今のところ、そういった知らせは受けておりませんが』

ルサベルクはとぼけてみせる男に大袈裟なため息を漏らすと、わざとらしく肩を竦めてみせた。

『じゃあ、うちのディル様は?ここ来なかった?』
『ラーレディル殿下でしたら、少し前に立ち寄られました』
『ってことは、もういない?』
『はい。領地の見回りに向われたとお伝えしたところ、日を改めるとおっしゃっておいででした』
『ふーん。分かった、有難う』

『覚えとけよ』と心の中で悪態を漏らしながら、ルサベルクは屋敷に踵を返そうとする。
エフルクに仕える男は、早々に見送る構えだ。

(はあ、ディル様は多分キートラに向ったんだろうな。シェル様んとこの使者を引き摺ってってキートラの惨状を見せ付けてやろうと思ったのに)

どの道騎鳥は、もう空が暗い為に飛ばせることは出来ない。
ならば自分の主を追い掛けるよりも、ここでハーナシェルの使者を待ち構えた方が無難かもしれない……というのは建前で、面倒になりつつあったルサベルクは近くに隠れて待つことにした。

その矢先、紫色が闇に染まりつつある空に鳥の集団のような影が薄く浮き上がってくる。
ルサベルクは引き返し掛けた足を止め、眉を顰めながらまじまじと空を見上げた。

次第に鳥の集団が抱える白い鳥籠が見え、その集団がこちらに向ってくる様子がはっきりと確認出来てくる。
そしてその鳥籠の下部には、王家の紋章が夜の空でも確認出来るほど鮮明に描かれていた。










『なんだと!くそっ!?』

闇夜にラーレディルの苛立った声が響く。
その顔を焚き火が煌々と照らし出す様は、周囲を怯えさせていた。

ラーレディルが迂回した草原を抜けて道に戻った先には、焚き火を囲む七、八人の男達がいた。
一瞬、待ち伏せか、はたまた夜盗かと身構えたラーレディルではあったが、男達の怯えた様子に構えを解いた次第だ。

話を聞くと男達はエフルクの兵だという。
そして、自分が紅葉達と反対のルートを通り、見事に入れ違いになってしまったことを知った。

(くっ、崖が崩れなければ完全に読みが外れていたな。兄上の使者は、すでにエフルクの屋敷に着いているだろうか。今から戻ってエフルクに追い付くとは……)

だが、こうして悩んでいる時間も惜しい。

(……)

ラーレディルは降りた騎獣の手綱を引きながら、崩れた岩山へと歩み寄った。

小石がぱらぱらと落ちてくる。
微かに地鳴りのような音が聞こえると、エフルクの兵は遠巻きに『危ないです、お下がり下さい』とラーレディルを呼んだ。

地鳴りは続き、何処か遠く……少なからず、ラーレディル達からは見えない場所で、岩が転がり落ちるような音がした。

ぼんやりと月明かりが岩を青く照らし出している。
青い光は何処までも優しい。

月を見上げていたラーレディルは、ゆっくりと前を向いた。

『で、殿下?』

騎獣に跨るラーレディルに不安を覚えたのか、その場に留まっていた兵が恐る恐る声を掛ける。
ラーレディルは騎獣の上から肩越しに振り返ると、素っ気ない口調で兵に声を掛けた。

『イーブディという男が来たら、お前では無理だからここで待っていろと伝えろ』

エフルクの兵が青褪める。
悲鳴染みた声とどよめきが夜の空に響く中、大地を蹴る音を響かせ、ラーレディルは自身の運命の分岐路を走り出す。

それと同時に、揺れる運命の指針はひとつの方角にはっきりと向きを変えた。



紅葉はゆっくりと瞼を起こし、瞬きを重ねた。
そのまま流れるように静かに、隣に聳える崩壊した岩山を瞳に移す。

夜風にタナムが靡き、前を向いた紅葉は落胆のような面持ちで目を細めた。

『お疲れですか?』

騎獣の手綱を取る従者の男が紅葉に声を掛ける。

『後少しで元の道に戻りますよ、抜けたら少し休憩にいたしましょう』
『ムーリス!貴様、いい加減にしろ。休憩などしている暇はない』

エフルクが男に向って怒鳴った。
草原の草は騎獣の足を取り、思うようにスピードが出ない為、エフルクをますます焦らせている。

焦りは苛立ちとなり、周囲に向けられていた。

『しかし、巫女様がお疲れのご様子ですし……』
『その娘がそう言ったのか?お前に巫女の言葉が分かるのか?ん?』
『いえ、それは……ですが、他の者も疲れていますし』
『疲れているだと?この私が疲れるならまだしも、鍛錬を積んでいる者がこの程度で疲れるというのか?誰が疲れている、言ってみろ、お前か?それともお前か!賃金泥棒め、クビにしてやる!』

兵達がエフルクから顔を逸らす。
もはやうんざりとした面持ちを隠そうともしていない。

他の者達も苛立っているのは同じだ――とはいえ、エフルクの焦りとは違い、それは単に疲れによるものであったが……。

一人怒鳴るエフルクを、紅葉はすでに怖いとは感じていなかった。
すでにそれが癖であるかのように、紅葉は再び崩壊した崖を見上げる。

『エフルク様、道が見えました』

先頭の兵が安堵を浮かべて叫んだ。
誰もが思わず、肩から力を抜いた。

サクサクと草を踏みしめる音が途絶え、足元に触れていた草が消える。
草原を抜けた途端に、視界が一気に開けた。
土色の踏み固められた大地を獣の足が力強く踏むと、乗っている者にも違った感覚が伝わってくる。

紅葉は、つい先程まで隣に見えていた崖に向けて振り返った。

「……ぁ」

耳に微かに……。
それは本当に、幻聴かと思うほど微かにではあるが、音が近付いてくる。

音は次第にはっきりと響き始めていた。

岩石が転がり落ちる音が近くに響く。
だがその音に混じり、何かを蹴るような音が微かに耳に届いた。

目を凝らせば、岩山の上を跳ぶようにしなやかに走る獣の姿が、一瞬視界に入り込む。
見失ったかと思えば、力強い足音と共に鱗が月明かりを煌びやかに反射させ、闇の中に淡くその存在を映し出す。

『な、なんだ!?』
『獣か!』

兵達が疲れた顔を緊張と恐怖に強張らせた。

とんっ……とんっ……と、木霊するように響く足音。
音はひとつだが、月明かりに微かに光る鱗は左右に移動し、獣の群れが迫ってくるように感じた。

近付くにつれ、次第にはっきりとそのシルエットが浮かび上がる。
実際に姿を現したのは一匹の恐竜のような獣と、その背に跨る青年だった。

青年は獣と呼吸をひとつにして獣の舵を取る。
獣は背中に人を乗せながらも、崩れて間もない岩塊を右足一本と左足一本で交互に蹴り、跳ぶように岩塊を超えてくる。

空を流れる雲が、月を隠す。

『ヴィッディ、跳べ!』

青年の晴れやかな声が唖然と見守る一同の耳に響いた。

騎獣は兵達の頭上を飛び越え、力強く大地にその両足を付く。
尾で重心を取りながらぐるりと体を翻すと、獣は煙を噴出しそうな勢いで得意気に鼻を鳴らす。

獣の息が白く、吐き出された。

そして沈黙が流れた。
時が止まったかのように、兵達を始め、エフルクすら口を開いたまま青年を凝視する。

青年は騎獣の背中を撫でると、暗がりの中で男達を見回した。
その中から目的の人物を見付けだすと、青年は誇らしげに笑う。

『ははっ、やっと追いついたぞ。手間の掛かる女だ』

紅葉はこの瞬間を分かりきっていたかのように、ゆっくりと会釈を返す。
沈黙の中、言葉による返事の代わりに鈴の音がひとつ、涼やかに音を立てた。

『……なっ』
『誰だ、貴様は!』

唖然としている兵の後ろから、従者のムーリスが叫ぶ。

『貴様こそ、誰に向って口を利いている』
『なに……?』

月を隠す雲が流れてゆく。
同時に雲の切れ間から差し込む月明かりの中へと足を踏み込み、青年は凛然とした面持ちでよく通る声を響かせた。

『この俺が、名乗らねば分からぬか?』

月に青く照らし出される肌、そして青い髪が今は夜空のように染まっていた。
毅然とした眼差しと面立ちは、一度目にすれば忘れることの出来ない風格を備えている。

エフルクの脳裏に、ある名が浮かび上がる。
それは今最も、この場所から遠ざけたい人物の名であると同時、忌々しい存在でもあった。





ファーテルの露店通りを見下ろす屋敷の中、クモークは美しく繊細な細工の窓から月を見上げ、顔を曇らせていた。

『安心なさい。ディル殿下ならば必ず娘を救い出してくださいます』
『……有難う御座います。私もそう信じています』

自分には、信じることしか出来ない。
呟くように告げ、クモークは羽織っている上着を握り締める。

『しかしエフルク伯も強引なことをするね』
『コーヴェラ領ではよくあることです。貴族は気に入った娘がいると税が未納だとか因縁をつけて、待ってやるとか言って利子代わりに娘を攫っていくんです』
『領内のことは、なかなか外に出ないからね……そういったことは、コーヴェラに限ったことではないかもしれない』
『!』
『私は、誓ってそのようなことはしていないよ?』

ファーテルの領主・ジャルクスは柔和な印象の苦笑を浮かべた。

クモークが俯くように顔を伏せると、睫毛が影を落とす。
それは懺悔のように……睫毛が震えていた。

『前にも一度、女の人が連れて行かれたそうなんです』
『それが、スーという老人の実の娘かい?』
『はい。私はその頃他所の町に留学してて、村の人達に聞いても詳しく話してくれなかったから、何があったかはよく分からないんです。その老人は私もあまり話したことのない人でしたし、村人もその話を避けるから、時と共に私も皆もその事を忘れていきました』

『けど』と、クモークは噛み締めるように呟いた。

『一年くらい前からスーじいさんが、娘から手紙が来なくなった、きっと殺されたんだって騒ぎ始めて……』
『それで?』
『何もしませんでした。何かしなきゃいけないとは思っても、どうしていいか分からないし』

クモークは膝の上で手を握り締める。
力を込めたその手の指先は、白く染まっていた。

『それが一月前くらいから、スーじいさんがいつの間にか女の子を村に住まわせていたんです』
『それが、セトゥナという少女?』

こくりと、顔を上げてクモークは深く頷き返す。

揺れるクモークの瞳が縋るように……
自分ではどうすることも出来ない力に抗うよう、目の前の男を、そして今はここにいない青年を見据えていた。





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