キートラ
〜12〜




空は太陽が沈み、夕闇に染まりつつあった。

獣車は村を出てから休まずに走り続けている。
紅葉は小窓に身を寄せ、疲れきった体を休ませていた。

(スーおじさん、どうしたかな。村に戻ったら村の人達に責められるだろうし、戻っていて欲しくないな)

一睡もせずに、昨夜から走り続けてきたのだ。
体が疲れきっているが、眠気は不思議と押し寄せてこない。

(クモークや村長も見当たらなかったけど、どうしてるのかな。自分以外の人の未来は見えないの?)

今のところ、自分の目を通した未来しかみていない。

(やっぱり、そういう"ルール"なのかな)

車輪が小石を踏み、大きく揺れる。
目の前に座る男は、そんな中で優雅に飲み物を飲んでいた。

自分の隣には、男の従者と思しき男が隙のない顔立ちで座っている。

会話のない静かな馬車の中で、紅葉はため息すらあげられずに瞼を閉ざした。
その瞬間、右目に圧力が掛かり体にふわりと浮遊感が襲う。

闇が辺りを包み込み、瞬きと共に空に投げ出される。

茜色の空から見下ろす限り、辺りは夕日に照らされ、まるで小麦畑や稲穂のように黄金色に染まった広大な草原だった。
ところどころに大きな岩が点在する以外、これといって特徴はない。

草原の中央を走る成らされた一本道にはほとんど草もなく、獣車は変わり映えのない一本道をただひたすら走っている。
中にいては気付かなかったが、その周囲には隊列をなした護衛の隊士達が前後左右を固めていた。

紅葉が瞬きをすると吸い込まれるように、今自分がいる位置から見る光景へと場面が変わる。
今と変わらず獣車の中で座る自分と、目の前に座る派手な男、そして隣に座る従者の男の三人しかいない。

獣車はいつの間にか、高さが数十メートルはある巨大な岩の崖を目前に控えていた。
崖に両脇を固められた一本道を突き進んでいく。

中間地点に差し掛かった辺りで、ふいに車輪の音に混じり何か地鳴りのような音が聞こえ始める。
護衛が騎獣を獣車に寄せながら窓の外で声をあげ、獣車を走らせる御者が悲鳴を上げた。

その声に驚き、隣に座る従者の男が小窓から身を乗り出す。
男はすぐさま事態を把握し、顔色を変えて声を上げた。

道を囲む片方の崖が崩れ落ち、崩れた崖の上から巨大な岩石が転がり落ちてくる。
それは周囲の護衛を押し潰し、まもなく獣車を呑みこんだ。

びくりと跳ね起きた紅葉に、隣に座る男と派手な男がいぶかしむような視線を投げてきた。

頬を一筋の汗が伝い落ちる。
弾かれたように窓の外に視線を向けた紅葉は、ぎくりと体を強張らせた。

先程夢で見た場所が目前に迫っている。

「っ!」

紅葉は腕を縛られたまま、必死に首を横に振った。
先程まで大人しかった紅葉の豹変振りに、気が狂ったのだろうかとばかりに不審な目が向けられる。

指を差してジェスチャーで訴えたくとも、両手を後ろに縛られていて不可能だった。

(言葉しか……でも、止まってってなんて言うのかしら。近い言葉は教わったよね……えっと『止まる』?岩、いわ、岩は……駄目だ、教わってない。ああ、じゃあ転がるって何!?)

紅葉は息を吸い込んだ。

「……ぅ『止まる』」

搾り出すように、言葉――というよりは単語が喉から漏れる。
自分自身では、声が出たことを驚きはしなかった。

だが、他の二人は違う。

命一杯に目を見開き、紅葉の顔を見ている。
派手な男はすぐに従者に視線を移し、怒声を上げた。

『なんだ?この娘喋る事が出来るのか?お前の情報では口が利けないと――まさか、偽者を捕えたんじゃないだろうな!』

派手な男が怒りに血相を変え、獣車の中で立ち上がった。
従者の男は青褪め、おろおろとするばかりだ。

派手な男が自分を指して怒っている。
とてもこちらの伝えたいことを理解してくれたとは思えない。

紅葉は男と責められている男の間に体当たりをするように割り込むと、曖昧な記憶の単語を祈るように繰り返した。

(止まって!)
「『止まる』!」
(岩が――)
「『石』!」
(降ってくるの!)
「っ……『転ぶ』!」

そして何よりも祈るのは、伝わって欲しいということ。

男達は断片的な単語を発する紅葉を、いよいよ不気味なものを見るような目で見てくる。

(冗談じゃないわ。こんなところでこんなおじさん達の道連れなんてごめんだからね)

紅葉は出入り口のドアに身を寄せると、後ろ手を縛られたままドアノブを探し当てる。
ぎょっとした男が従者に止めるように指示を飛ばし、男は言われるまでもなく御者にスピードを落とせと叫びながら、狭い獣車の中で紅葉に手を伸ばす。

紅葉はドアノブを手探りに掴むと、思い切って体重を掛けた。
ドアノブは思ったよりも滑らかに、滑るように下を向く。

途端に扉が外に向けて開き、寄り掛かっていた紅葉の体が地面に吸い寄せられる。

『っ!?』

男が獣車の側面にある手摺に捕まりながら紅葉に手を伸ばす姿が、紅葉の瞳には映っていた。

(ああもう、こんなのばっかり)

車に轢かれ、木から落ちて、今度は走っている獣車からだ――…。

(三度目の正直で、死ぬかな)

だが恐怖がないのが不思議だった。
夕闇に染まる紫の空を見上げ、美しいと思う余裕すらある。
痛みを想像して、体を竦める時間もある。

「ッ――!?」

背中から地面に落下し、縛られた腕と肩を強かに打ちつけた。
だがその痛みを痛感する暇もなく、体は地面の上を転がりながらバウンドして再び肩を強打すると、ごろごろと地面の上を転がり呼吸が喉の奥に詰まる。

後ろを走っていた護衛の兵が驚きの声をあげ、騎獣が咄嗟に紅葉の体を飛び越えて行く。

「――っ」

口の中に砂の味が広がった。
呼吸が出来ず、うめき声すらあがらない。

数メートル程離れた場所で停まった獣車から、従者の男が飛び降りて駆けつける。

男が紅葉の体を起こそうとすると、紅葉は詰まっていた呼吸を吐き出すように咽ながら、瞼を起こして獣車のある方へと視線を向けた。

獣車から、御者と派手な男が顔だけをだして振り返っている。
護衛の兵達も、何があったのだと困惑した面持ちで騎獣の足を止めてこちらを見ていた。

『なんて危険なことをするんだ!車輪に足を巻き込まれたり後続の騎獣に踏まれでもしていたら――』

男の怒声を遮るように、地鳴りが響き始めた。
いぶかしみながら音の正体を探っていた男達の視線が、次第に一本道を挟む岩山へと向けられていく。

紅葉は夢の通りに起こり始めた未来に、小さな苦笑を浮かべた。

岩山は道を挟んで左右に分かれているが、変化があったのは右手の崖だった。

まずは小石だった。
それは本当に、見落としてしまいそうなシグナルだ。

変化のあった方の頂からころころと飛礫のように、小石が傾斜を転がり始める。
次第に地鳴りの音が大きくなり始め、崖の頂上には鋭い音と共に亀裂が走り、岩肌が目に見えてずれた。
次の瞬間には大きな亀裂が数十メートルはある岩肌に雷のように走り、岩が押し合い分裂する音が鼓膜を支配する。
右手の巨大な崖が、まるで何かに握り潰されたかのように一瞬にして砕け散ると、崖の上からひとつふたつと、大きな岩石が転がり落ち、その後に続くように次々と岩が落下し始めた。

音に驚いた獣達が暴れだし、獣車が転覆すると乗っていた派手な男が外に投げ出される。
砂埃が離れた紅葉たちにまで達した。

崩れた崖は右側のみだったが、土台を残して粉々に砕けてしまい、崩れた崖は左側の崖に寄り掛かるように、岩と岩に挟まれた一本道を完全に押し潰してしまっていた。

誰もが、唖然とした面持ちで崩れた崖を見上げていた。

『エ、エフルク様!』

従者の男が思い出したように立ち上がり、倒れた獣車に駆け寄る。
獣車の隣に投げ出された格好のまま、呆然と崖を見ていたエフルクは、朦朧とした目を男に向けた。

『こ、これはいったい……どういうことだ?何が起きたんだ』
『崖が……崩れたとしか、私にもよくは……』
『何故このタイミングで崩れるのだ!もしや――あの娘がやったのではないのか!』
『そうか!エフルク様、あの娘はこのことを我々に伝えようとしていたのではないでしょうか?巫女は予知の力を持つといわれています』

男達の視線が紅葉に向く。
体が痛くて立ち上がれない紅葉は、びくりと体を強張らせた。

従者の男は感極まった面持ちで、主の下から紅葉に駆け寄ってくる。

『本物だ、凄い!本当に奇跡の力を持っている!あなたは、いえあなた様は命の恩人です』
「?」

男は紅葉の腕の拘束を解き、崇めるように興奮した様子で詰め寄ってきた。
男が紅葉の腕を掴むと、紅葉は痛みに顔を歪めた。

『やはりお怪我を!診せてください、ああ折れてはいませんがヒビが入っているかもしれないな』
『おい貴様!何を勝手なことをしている!娘が逃げたらどうするつもりだ!』
『エフルク様。これは、巫女をぞんざいに扱ったことでバチが当たったのかもしれません』
『何を馬鹿なことをっ!本物であればそれでいい、尚更一刻も早く屋敷に戻り、殿下にお渡しするのだ!』
『はい、しかし……』

従者の男は顔を曇らせ、倒れた馬車と崩壊した崖を見やる。

『車が使えたとしても、道が完全に塞がってしまっています。迂回せざるを得ないのですが、約束の時間までに戻ることはもはや困難かと……』
『ぐっ、役立たずが!』

派手な男は砂埃を被りすっかり薄汚れ、苛立たしげに怒鳴り散らして歩く。

護衛の兵達も、数騎、騎獣をなくして呆然としている。
自然の驚異の前に、人間はあまりに無力だった。

紅葉は崩壊した岩山へと視線を向けた。
ふと、岩の影に白いものが消えていった気がする。

(……え?)

紅葉は目を見開く。

――ホルツ?

もし本当にそうだとしたら、自分を殺すつもりだったとしか思えない。
ホルツがそんなことをするとは思えないが、獣車から飛び降りた時にぶつけた体が痛みを訴えてくると、ホルツを信じきることも出来なくなってくる。

それを確かめる術もなく、紅葉は疑いに心を揺らし始めていた。





崩れた谷を挟んだ反対側では、ラーレディルが口を開いたまま、ぽかんとした面持ちで崩れた崖を見上げていた。

『なんと……』

イーブディが騎獣を降り、数歩前へと進み出る。
その顔にはまだ、驚愕が覚めやらないでいた。

『あと少し早ければ巻き込まれていましたね。運が良かったのでしょうか……』
『いいわけがあるか!一刻を争うというのに迂回をせねばならんだろうが!?』
『は、はあ。申し訳ありません』

思わず謝ってしまうイーブディだが、ラーレディルは苛立たしげに口の中の砂を吐く。

ファーテルとコーヴェラの間にある関所を潜り、コーヴェラ領に入り暫く進むと、道は三本に分かれる。

南に進めばキートラに向かい、一般的な騎獣で半日弱。
北に向かえばコーヴェラの領主邸まで、キートラまでの距離の約半分の時間で到着する。
そして、このまま数日掛けて真っすぐに進めば首都に向かう。

ラーレディルは関所を抜けた後の分かれ道で、どの道に行くべきか悩んでいた。

恐らくコーヴェラの領主・エフルクは、ウィンブルと契約を結んだ娘を見付けたので引き渡すと兄に連絡をし、何処かで兄の使者と待ち合わせをしているだろう。

だが現時点で、エフルクは紅葉がウィンブルと契約を結んだという確たる証拠は得られていないはずだ。
誤魔化せる今だからこそ、今はまだ、兄の使いと"ウィンブルと契約を結んだ娘"をどうしても会わせたくない。

そんな最中、昨夜、ラーレディルを訪ねてきた人物がいる。
彼の告発により事態は思いがけず、ラーレディルにとって好都合な方向へと転ぼうとしていた。

だが目先の課題はやはり、兄の使者と紅葉を会わせないことだ。
もしそれが不可能だとしたらせめて、紅葉がエフルクに会う前に会い、エフルクや他の者の前では自分達が初対面だと話を合わせて貰わなければならない。

その上で紅葉を、貧乏な村と横暴な領主の間で売られそうになった"ただの村娘"としてファーテルに連れ帰りさえすれば、こちらのものだ。
ファーテルならば自由が効くし、周囲の目から、時が来るまで紅葉の存在を隠すことが出来る。

少しでも自分にとって有利な状況に持ち込みたいが、関所からの分かれ道は運命を決めると言っても過言ではない賭けだ。

エフルクは恐らく自らキートラに出向きはせず、部下に紅葉の回収を命じるはずだ。
エフルクは部下が紅葉と共に帰るのを屋敷で待つか……はたまた、首都に向かう道中で部下の帰りを待ち、そのまま首都の方角に向かうか……。

すでにファーテルから来たラーレディルは出遅れている。
一時でも惜しい中、悩んだ末、首都に向けて動き始めたラーレディルの耳に、自分が背を向けた方角から地鳴りのような音が聞こえてきた。

思わずキートラへの道に騎獣を向けて走らせた矢先、目の前で崖が崩れ出したのだ。
さすがに肝が冷える。

イーブディは完全に塞がれた道の前で、砕けた小石を拾い上げた。

『しかしこれはエフルク伯の仕業でしょうか……』
『こんな偶然が自然のせいであって堪るか』
『ではやはり彼の仕業とお考えですか?』
『奴に会えば分かることだ!置いていくぞ』
『えっ、あ!?』

ラーレディルは岩山が崩れていない側の草原へと回り込み、足の速い騎獣は上体を下げると全速力で走り始める。

『ラーレディル様、お待ちください!伯の仕業であれば迂回路に罠が張られている可能性があります、どうか慎重に――』

イーブディは慌てて騎獣に跨りながら、主に向って叫ぶ。
だが、主から返事が帰ってくるわけでもなく、距離が開いていく一方だ。

『くっ!追うぞ、シルディー』

イーブディは騎獣に手綱を打ち付けると、ラーレディルの後を追い、草原の中へと飛び込んだ。





NEXT