キートラ
〜10〜




紅葉は心臓に冷や水を浴びせられた気分になり、体を強張らせる。

足元にはスーが、愕然とした面持ちで震えていた。
必死に何かをブツブツと繰り返すスーは、まるで許しを請うているように見えてならない。

無意識に瞬きをする。

次に瞼を起こすと、目の前で赤い物が飛び散る瞬間だった。
騎獣に乗った男が振り下ろした銀色の刃から連なるそれは、スーの体から噴出すものだ。

ゆっくりとスーの体が傾き、倒れ込む。

(嫌だ、何これっ!?)

紅葉は戦慄した。

倒れたスーが這い寄って来る。
紅葉はしゃがむ事も出来ず、口元を押さえて震えるばかりだった。

スーの血塗れの手が紅葉の足を掴む。
夢の中の紅葉は、「ひっ」と息を呑んだ。

『セトゥナ……セ――』
「っ――!」

目を開けた瞬間、目の前に心配そうなスーの顔がある。
紅葉は飛び上がるように後ずさり、声にならない悲鳴をあげた。

『どうした、セトゥナ!』
「ぁ……ぅ」

紅葉は状況を理解出来ず、紅葉は目を見開いたまま恐怖に震える。
次第に自分が夢から覚めたのだと気付くと、紅葉は縋るようにスーの腕を掴んだ。

(殺される、このままじゃスーおじさんが殺されちゃう!)

紅葉は必死に伝えようと唇を動かすが、声が出ない。
焦る紅葉はどうしていいか分からず、スーの腕を掴みながらぼろぼろと涙を流し始める。

『なんだ、どうしたんだ?セトゥナ?落ち着きなさい、大丈夫だ』

根気強く、スーは紅葉が泣き止むまで背中を擦ってくれていた。

伝えなければと焦る。
焦る一方、スーの優しさが沁み、涙は一層増した。

紅葉は泣きながら、どうやってこのことを伝えようか考えていた。

ぽたぽたと、涙がスカートに落ちて染みを作る。

(夢で見たことなんて、信じてくれる?)

ラーレディルならば信じてくれるだろう。

紅葉は袖で涙を拭うと、スーの顔をじっと見詰めた。
まるで自分のことのように、心配そうに紅葉の顔を覗きこんでくれている。

心の底から彼を夢の通りにしたくはないと思った。
好きなのだ、沢山感謝をしている――まだ何も……お礼も言えていない。

紅葉はスーの腕を左手で掴んだまま、村のある方角を指差した。
そして次に、焚き火を指す。

スーは理解出来ず、眉を顰めている。

紅葉も困った顔になると、今度は地面に村の絵を描く。
そしてそこに炎の絵を描き加えた。

暫し紅葉の行動の意味を考えていたスーが、弾かれたように顔をあげ、紅葉の顔を見る。

紅葉は続けて人らしきものを地面に描き、スーとその絵を交互に指差した。
そして剣を持った人影を描くと、スーの体に斜めの線を描く。

意味を理解してくれたかは分からない。
だがスーは愕然とした面持ちで、紅葉が描いた絵を見下ろしていた。

(でも、これを伝えたところでどうすればいいんだろう?未来は変わるの?それとももう手遅れ?)

今まで見た夢は、確実に現実になってきた。

(まだひとつ……現実になってない夢があるじゃない)

馬車らしきものの前に立つ貴族に会っていない。

もしかしたら、それはこれからなのかもしれない。
だが考えを変えれば、何かがきっかけに未来が変わり、避けられた未来のひとつだったのかもしれない。

(きっとあの夢は繋がってるんだ。あの人が村に火をつけるのかも……)

パズルのピースを嵌めるように、紅葉は夢と夢を繋げ、言葉が分からない分を想像力で補っていく。

(でもあの夢で村は燃えてなかった……。もしかして、私があの村を出たから?)

紅葉は息を呑み、胸元で握り締めた手を震わせた。

"そなたがその力を使えば、世界すら動かすことも夢ではない"
"私の為にその力を使え"

ラーレディルの言葉が脳裏を過ぎる。

もし夢で見た男がラーレディルのようにウィンブルの力を欲する者で、その力を力ずくで手に入れようとする者であったとしたら……。

ウィンブルの力を欲するというのは、あくまでも紅葉の考えだ。
だが違ったにせよ、紅葉があの男に差し出される未来があったことは違いない。

(私がこのまま逃げたら、最悪の未来になる)

自分のせいで最悪の未来になることは分かっている、だが――…

手が震えている。
夢で見た"死"が、"炎"が怖い。

(でも、でも……村の人達なんて、全然優しくなかった。虐められたし、夢では皆躊躇いなく私をあのおじさんに差し出してたし……)

青褪める紅葉は、視線を地面に落とした。

(それなのに、なんで私が、あんな人達の為に犠牲にならなきゃならないの?)

自分のことの方が大事だ。

そう思いかけた最中、胸が苦しくなる。
苛立ちのような嫌悪が込み上げ、胸を締め付けた。

(嫌だ……違う、感謝してるの。嫌いな人の方が多いけど、スーおじさんとかクモークとか、怖かったけど村長とか……いい人だっていた)

ぐっと泣きそうになる自分を呑み込む。
紅葉は手を握り締め、呆然としているスーを見た。

(スーおじさん達に会って、私は変わりたいって思ったの)

紅葉はスーからそっと、強張った自分の指を一本ずつ離していく。

(行かなきゃ……)

スーがはっとした面持ちで紅葉の顔を見る。

紅葉は覚悟を決めた顔をしていた。
覚悟を決めたい上で、心の底から穏やかに微笑んでいた。

『セトゥナ!』

スーが掴もうとする手をそっと押し留め、紅葉は静かに首を横に振る。
ここに居るよう手振りで告げると、伝わったか確認することなく立ち上がり、紅葉は元来た道を走り出した。

スーが紅葉を追い掛けようと立ち上がった瞬間、目の前に白い獣が立ち塞がる。

月明かりを浴び、青白く煌々と輝く毛並み。
紫水晶の瞳がじっとスーを見詰める。

『ウィンブル……!お前もあの子を奪いに来たのか!?』

スーは叫ぶ。

ウィンブルはスーの叫びに答えることなく、闇の中へと消えていった。

慌てて焚き火の火を松明に移し、焚き火を消してスーは立ち上がる。
だが数分ほど歩き、スーは森に違和感を覚えて立ち止まった。

何度歩いても、焚き火をしていた場所から離れられない。

ふいに闇の中に点々と、濡れた足跡を見付けるが、それは焚き火をしていた広場から先には続いておらず、途中で途切れている。
スーは松明を翳し、眉を顰めた。

『……血?』




キートラの村人達が眠れない夜を過ごし、来ないことを願った朝は、悪路を走る車輪の音と共に訪れた。

『逃げられた?』

男は獣車の中から、集まっている代表の村人達を見下ろし、不愉快さをにじませた声音で訪ね返した。
村人達は怯えたように顔を見合わせる。

『代わりの娘を用意しております。お好きな者をお連れください』
『ふんっ……』

男は獣車を降りると、ゆるりと腰の後ろで腕を組んだ。

白髪混じりではあるものの、身形のいい男だった。
首や腕、指や耳に至るまで装飾品に飾られ、細い体を鮮やかな赤の布地に羽飾りや宝石が縫い込んである服で包み込んでいる。
一言で言えば、"派手"だ。

『君達は何か勘違いをしていないかね?私が、この私が!たかだかただの娘の為に出向いたとでも思っているのか?そうなのかね?ただの娘では意味がないんだよ、分かるかね、君!』

男が手にする飾りの杖が、村人の胸を何度も突く。

『あの、失礼ですがセトゥナは一体……』
『そんなことは、お前達が知る必要はない』
『申し訳ありません!』
『分かったら、さっさとセトゥナという娘を連れて来い。太陽があそこの木を超えるまで待ってやる』

男が獣車の中へと戻り、不愉快そうにため息を漏らした。
獣車の窓から見える顔を出したばかりの太陽に一瞥を向け、苛立たしげに杖で掌を叩く。

すると男の従者である身奇麗な若い男が、獣車の外から窓を軽く叩き、小声で声を掛けた。

『エフルク様。お急ぎになりませんと、ハーナシェル殿下の使いの方がお見えになってしまいます』
『分かっている。お前も部下に捜させろ。女の足だ、騎獣で十分に追いつけるだろう』
『はっ』
『いざとなったら、のろしを上げてやれ』

思いついたようにエフルクは口元に笑みを浮かべた。
若い男は残虐な笑みを浮かべる主に肩を揺らし、恭しく頭を下げるように逃げ出した。

そしてその言葉は現実となる。

昼の空を燃え上がる炎が赤々と照らし出していた。
村人達が悲鳴をあげて逃げ惑っている。

紅葉は森を抜けた先で、肩で大きく呼吸を繰り返しながら、その光景を呆然と見上げていた。

「っ!」

唇を噛み締め、紅葉は燃え盛る村へと駆け込む。
熱気が渦巻く村の通りに、涼やかな鈴の音が響いた。

逃げ惑う村人達は紅葉になど目もくれず、荷物を持って家から飛び出してくる。
逃げる村人と肩がぶつかり、紅葉はよろけて地面へと倒れ込んだ。

スーの家が燃えている。
クモークの家も燃えていた。

井戸で必死に水を汲み、家に掛けている者もいる。

逃げ惑う人々の間を、騎獣に乗った私兵のような格好をした男達が我が物顔で堂々と闊歩していた。

その手には、火のついた松明が握られている。
そして、松明の火がまだ火の付いていない民家に付けられようとする光景に、紅葉は考えるよりも先に体が動いた。

足元の小石を掴み、火を付けようとしている男に向けて投げ付けた。
小石は男にではなく男の乗る騎獣に当たり、驚いた騎獣が暴れ、男を振り落とす。

(うわっ、ここまでするつもりなかったんだけど――でもざまあみろだわ)

『貴様ァ!?』

男が血相を変え、紅葉に怒鳴り掛かる。
紅葉は一目散に身を翻し、男から逃げ出した。





NEXT