キートラ
〜1〜




白く大きな獣がいたのは、おそらく、見間違いではなかったはずだ。

車に轢かれてしまう。
だから駆け出した。

車の急ブレーキの音が響いてくる。

タイヤがアスファルトを滑る音が聴覚を奪う。
眩しい車のライトが、視界を白に染める。

後は体に強い衝撃が走り、体はボンネットを乗り上げ、そのまま放り出されるように宙を舞った。

白い光、星空、アスファルト――…
そして閉じた瞼が視界を闇に染めた。

ただそれだけを、強烈に刻み……










紅葉はその日から、おかしな夢の中にいた。

ひどくリアルな夢だ。
そして今、夢の中で夢を見ているのだという自覚があるが、実は最初に見ている夢自体が夢ではないことを、認めがたいが理解はしている。

『……口を慎め、無礼者』

声がした方へと、紅葉は慌てて振り返った。

恐竜のような獣の背に乗る、中世の貴族のような格好をした青年の冷たい眼差しがこちらを見下ろしている。

振り返った紅葉の背後から、虎の鳴き声のような低く唸る声が響き、紅葉はびくりと体を強張らせた。
そこには白亜の毛皮を纏う獣がいた。

青年が放った弓矢が、紅葉を目掛けて飛んでくる。
それと同時に、自身の体よりも長い尾を持つ白亜の獣が牙を剥き、襲いかかってきた。


「っ――!?」


悲鳴をあげて目を覚ます。

だが、悲鳴など自分自身にすら聞こえてこない。
恐怖に萎縮して緊張した体が、ひゅうひゅうと、喉から空気が抜けるような音を立てている。

近くに小鳥のさえずり。
窓の隙間から差し込んでくる朝日。

硬い木のベッドに敷かれた薄い布団とシーツのような掛け布団の間で身じろぐ。

今日もまた、一日が始まったのだと……。
紅葉は震える自分の掌を見下ろし、瞼を噛み締めた。

車に轢かれた後のことだ。
目を覚ました紅葉は深い森の中に倒れていた。

その時は、車の前に飛び出した紅葉をドライバーが死んだのだと思い込み、発見されないように森の中に遺棄したのだと思ったが、そんな紅葉を拾った老人はひどく紅葉を困惑させる時代錯誤な格好をしていた。

紅葉は立て付けの悪い玄関扉を開けると、「はぁ……」と、空に向けて息を吐き出す。

今日はどんよりとした曇り空が広がっている。
ドアの蝶番の軋む音が耳に残った。

雨は降るだろうか?雨漏りが心配だ。
家の中が湿気て、釜戸の火の付きも悪くなる。

『セトゥナ』

奥の部屋から、しゃがれた老人の声が微かに聞こえてきた。

ゆっくりと足を引き摺るように近付いてくる老人の側に歩み寄ると、紅葉の腰に付けた小さな鈴が控えめな音を立てる。
紅葉はその体を支えるように老人の手を取った。

触れるたびに、心細くなる。
老人の手足は骨に皮を貼り付けただけのように細く、目は白く濁っていた。
だが枯れ木のような手は、紅葉を離すまいと強く握っている。

彼はスーという。
紅葉の肉親でもなんでもない、ただの他人だ。
だが、この村の裏に広がる森の中に倒れていた紅葉を見付け、行く当てもない紅葉を家に住まわせてくれている恩人だ。

夢に出てきた青年のように中世のヨーロッパのような服を身に付けているが、青年と違いその服は着古した見栄えの悪いものだった。
驚くことにスーだけでなく、老人が住まう村自体が歴史を巻き戻したかのような建物や村人に溢れている。

夢の中に迷い込んだかのようではあるものの、その夢からは一向に覚める気配もなく、すでに一月以上の時が経過していた。

紅葉がスーと共に生活をするようになって分かったことは、スーは一人暮らしだということ。
そしてどうやら、村人達とあまり仲が良くないということだ。

彼は家の床下の物置から少し古びた女物の服を持ち出し、紅葉に宛がってくれた。
生活に必要なことを、言葉少なに教えてくれている。

無愛想で言葉も少ないが、今の紅葉にとっては唯一頼れる存在だった。

そして彼は、紅葉が自分の名を名乗る前から、紅葉のことを"セトゥナ"と呼ぶ。

憶測ではあるが、それは多分、彼の娘の名なのではないかと思っている。
そしてその娘はすでに他界しているか、何等かの理由で彼の元を去り、彼は自分を娘の代わりにしようとしているのか……はたまた、本当に娘だと勘違いしているのだろう。

確かめたくても、紅葉には彼等が話す言葉が分からない。
彼等の言葉は今だかつて耳にしたことがない言語だ。

服装も古く食事も粗末で、当然電気も水道もない。
おかげで、生活の端々で紅葉はとても苦労をしている。

『水汲みに行くのか?』

聞き覚えた単語を読み取りながら、紅葉はこくりと頷き返した。

『いいか、決して人前で口を利いてはならんぞ』

何かを警戒するように、スーは紅葉の手を更に強く掴む。

ここに住まわせてもらうようになってから、毎日飽きるくらいに言い聞かせられてきた言葉だ。

なんとなくではあるが、その意味は理解しているつもりだ。
以前村人に家の前で話し掛けられていた時、スーが追い払っていたので、おそらくは村人と喋るなと言っているのだろうと思っている。

紅葉は恩人に対して失礼だとは思いながらも、内心ではうんざりしていた。

『いいな、絶対だぞ!』

何度頷いたことだろう。

この村の住人達は閉鎖的で、紅葉に対する村人達の目は冷ややかだった。
最近ではやっと害がないと判断されたのか、少しずつ警戒は薄れてきているが、優しいものではない。

紅葉は桶を手に、村の中央にある井戸へと歩を進めた。

早起きをした為、井戸の周りには人も少ない。
紅葉が井戸に備え付けられた桶を下ろし、水を汲み上げると、自身が家から持ってきた桶に水を移し変えた。

一日に数回繰り返すこの作業で、手にマメが出来たし、腕に少し力が付いた気がする。

蛇口を捻ればいくらでも水が出てくるという常識が通用しない。
便利な生活に慣れきった紅葉からすれば、思い付きもしなかった手間だ。

紅葉が水を汲み終えようとした頃、一人の青年が大きく手を振りながら紅葉へと駆け寄ってきた。

亜麻色の髪に素朴な顔立ちをしているが、紅葉からすれば村で一番垢抜けているように感じる。
爽やかな太陽のような笑顔は、人々に恩恵をもたらしそうだ。

『セトゥナ!おはよう』

紅葉はこくりと頷き返し、小さな微笑みを返す。

村長の息子・クモークは、以前よりセトゥナを気に掛け、積極的に村人達に受け入れるようにと声を掛けてきてくれた気のいい青年だ。
その人柄のせいか、スーもクモークに対しては小言を言わない。

『よかった、会えて!これ、ドドウに行った土産』

クモークは、そそくさと手にしていた布を紅葉に差し出した。
丁寧に折り畳まれた布の上には、一輪の花が添えられている。

『あ、この花はさっき道端で見付けて綺麗だったからさ』

クモークは照れたように早口に告げて笑う。

紅葉は微笑みながらぺこりと頭を下げると、受け取った土産を指した。
手で開けてみてもいいかとたずねると、クモークはむしろ早くと急かす。

紅葉が布を広げると、ふちに赤い糸で刺繍が刻まれた"タナム"が姿を現した。

この地方の風習で、女は布上の"タナム"を頭に被り、"レアレア"という髪飾りを使い、耳の上でタナムと髪を留め、残りの布を首にスカーフのように巻く。
意味は理解していないが、紅葉もその風習に従い"タナム"を巻いていた。

村の若い娘達は、服の他にもタナムやレアレアでおしゃれを楽しんでいる。

『ドドウはタナムの刺繍で有名だろ?ほかにもセトゥナに似合いそうなのいろいろあってさ、俺センスとかないからさ、すっごく悩んだんだけど、これが一番だと思ったのを選んできたんだ。どうかな?』

ジェスチャーを交え、クモークは早口に告げた。
クモークの喋る言葉の意味のほとんどは理解出来ないが、紅葉は嬉しそうな笑みを浮かべて返す。

広げたタナムを、今付けているタナムの上から被ると、紅葉は似合うかと問い掛けるようにクモークへと首を傾けてみせる。
感極まったように頬を赤く染めたクモークは、何度も何度も頷き返した。

『似合ってるよ、セトゥナ!君は村一の美人だ!』

なにやら手放しに褒められている気がして、紅葉は照れながら、声なく微笑みを漏らす。

大袈裟なほどの賞賛が止むと、クモークは何かを言いよどむようにちらりと紅葉を見ては、目を逸らした。
紅葉が首を傾げながらクモークを見上げると、クモークが意を決したように口を開きかける。

クモークが口を開くのと同時に、遠くから、村長バートが息子のクモークを呼ぶ声が響いてきた。
クモークは紅葉まで驚くほどにびくりと跳ね上がり、まるで救われたかのような顔をしながらも、この場所から去ることを惜しむように地団駄を踏んだ。

『悪い、ついさっき着いたばっかりなんだ。ドドウから帰ったって、まだ親父に報告してなくてさ。またな!』
「ぁ……」

紅葉は声を出そうとして失敗する。
振り返ったクモークに再度、感謝を込めて頭を下げると、クモークは幼さを残す笑みを浮かべて走り去っていく。

バートは向ってくる息子の姿を見送る紅葉に視線を向ける。
紅葉がバートの射るような視線を受けて目を逸らすと、バートは背を向けて家の中へと消えていった。

(嫌われてる……)

だが、他人に好かれたいとも思っていない。
知らない場所に放り込まれた状態で不安はあるが、自分から積極的に、他人と必要以上の関わりを持とうとは思わない性分だ。

紅葉は貰ったばかりのタナムを丁寧に折り畳むと、水がいっぱいになった桶を手に踵を返した。

その瞬間、勢い良く水が降り注いだ。
驚いて桶を落とした紅葉の足元に汲んだばかりの水が広がり、乾いた大地にみるみると吸い込まれていく。

最悪な気分でのろのろと顔を上げると、村の娘達が陰鬱な顔で紅葉を見下ろしていた。
クモークのお陰で少し和んだ気分が一瞬にしてしぼんでいく。

『役立たずのノロマのくせに、色目使うことだけは一人前だね!』
『勘違いするんじゃないよ、クモークはあんたに同情して優しくしてるだけ。分かったら、二度とクモークに近付くんじゃないよ!』

若い村娘達が忌々しそうに吐き捨てるなり、その場を走り去っていった。

彼女はクモークを好きなのだということは想像がつく。

お下がりの色褪せた服を着た紅葉などよりも、田舎なりにおしゃれに気を使っているような女の子達だ。
贅沢を言えない身分ではあるが、最近、自分はひどく野暮ったい格好をしているのではないかと思い始め、若い娘を見ると劣等感のようなものを感じる。

(こんなことしてくれなくても……。自信を持てばいいのに)

紅葉はため息を漏らしながら、水を吸った服を見下ろした。

人に嫌われるのも面倒だが、好意もまた面倒を呼ぶことがある。
人に迷惑を掛けないように他人を頼らず、人が寄ってくれば適度に愛想笑いを……それが当たり障りのない人付き合いだと、すでにあちらの世界にいる時から思っていた。

(せめて言葉が通じればなぁ……)

紅葉は服の水を絞りながら、湿ったため息を漏らした。

どちらにせよ自分が村の人間とトラブルを起こせば、スーに迷惑が掛かる。
言葉など通じなくて都合が良かったのかもしれないと、紅葉は投げやりな気分になっていた。

目を覚ませば見知らぬ地におり、言葉も通じない、自分がどこにいるのかも分からない。
人も物も、見知らぬものばかりで埋め尽くされたこの世界は、現代社会での生活しか知らない紅葉の心を疲弊させている。

今、自分が最も恐れていることは村を追い出されることだった。
会話も出来ない、行く当てもない、そんな自分がスーの庇護下から放り出されでもしたら、確実に野たれ死ぬことは明白だ。

この地は差別が横行している。
ただでさえ余所者で、喋る事が出来ない自分は、村人達に蔑まれているのだから。

(でも、水掛けられるくらいたいした事ない……)

紅葉は水を汲み直すと、桶を手に立ち上がった。

(殺されたりしないだけマシよ)

中世ヨーロッパといえば魔女狩りだ。
ここが中世ヨーロッパなのかは定かではないが、もしその時代にいるのたとしたら、紅葉はとうに魔女として突き出されていただろう。

(どうせ元居た場所もこっちも、嫌な事があるのは大して変わらない)

瞼を伏せた。
その瞬間、ふいにまるで突如地面が消え去ったかのような浮遊感が体を襲い、紅葉は驚いて瞼を起こす。

村にいたはずの自分が、森の中に立っている。
木々に囲まれた森の中で、高い木に登る青年を見上げ――そこで紅葉は名前を呼ばれた。

『セトゥナ!どうしたずぶ濡れで……またあの娘達にやられたのか?』

突如夢から覚めたように、紅葉は息をつきながら目を見開き、周囲を見渡す。
元の村の風景だが、スーが不自由な足を引き摺り、家から紅葉に駆け寄ってきた。

スーは、紅葉が虐められていることを知っている。
一度、紅葉が干した洗濯物に泥水を掛けられ、スーが杖を振り上げて追いかけようとして転んだことがある。
今だその傷すら癒えないスーに、紅葉はあまり虐められていることを知られたくなかった。

自分の服の袖で水を拭おうとするスーに、紅葉は首を横に振りながら笑みを浮かべる。
紅葉が曇り空を指し、空のせいだと言い訳をした。

すると、埃っぽい乾燥した大地にぽつぽつと水玉模様が描かれていく。
それはまさに、タイミングを合わせたかのような天の助け――雨の降り始めだった。

スーは空を見上げ、小さくため息を漏らす。
スーとて、降り始めた雨でびしょ濡れになったとは思っていないだろうが、それ以上は追求してこない。

『早く、服乾かせ。風邪ひくぞ』

タオルを取り出し、スーは紅葉に渡す。
拭けということだろうか?と疑問に思いながら、紅葉はこくりと頷き返した。





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