episode1


時は、アスラ・デーヴァが十一歳の頃に遡る。

アスラよりも先に産まれたガルーダとイカロスは、アスラが産まれるまでの間、その能力を買われ、二人とも次期元帥候補として競うように育てられたという。
しかしその三年後、アスラが生まれたことにより、元帥候補はイカロスとガルーダの二人からアスラへと移ることになった。

最高位であるセラフィムクラスの力を持って生まれたアスラは、まごうことなき次期元帥だった。

周囲の大人はアスラに期待した。
アスラにとって、その期待に応える事は当たり前である。

自分が他の仲間とは違うことを、幼いながらに知っていた。
だからといって、それを鼻に掛けるつもりなどありはしなかったが、自分が人一倍努力をして生きていかなければならないことを知っていた。

何故自分だけが……。
普通の人ならば、そう思いたくなる時が訪れただろう。

だがアスラには、周囲の期待に応えれば得られる、他の者達とは違う喜びがあった。
それは母と会えるという特権だ。

家族から引き離されている仲間達に負い目を感じなかったわけではないが、心の何処かで、その分自分はプレッシャーの中、相応の努力しているのだという甘えのような考えもあった。

その日、アスラはとある理由で機嫌が良かった。

午後に、雑誌の撮影がある。
久しぶりに、愛する母に会えるのだ。

その時間を待つまでの間がとても長く感じ、今日はどうしても勉強や訓練に身が入らない。
空いた時間をそわそわと過ごし、普段は滅多に足を伸ばさないような場所にまで足を伸ばしてみたりした。

気付けば、随分と森の奥にまで来てしまったものだ。
後少し足を進めれば、職員達にあまり近付くなと釘を刺されている隔離病棟エリアに入ってしまう。

「おい、アンタ」

アスラは足を止め、声を掛けた少年へと振り返った。

声を掛けた人物をアスラはよく知らないが、予想通りの人物がそこに立っている。
最近、スラムという場所から来た新しい仲間だ。

彼は敷地内の奥にある病棟に隔離されている。
スラムで育った為、周囲に感染する病気に掛かっており、隔離はその治療の為だと大人は説明した。

だが、それが真実かどうかは定かではない。
実際感染していたとしてもそれは大した問題ではなく、彼が世間一般的な教養レベルに達していないこと、素行の悪さに不安を感じた大人達が、彼にそれを補わせる時間を稼ぐ為の口実だと、イカロスが言っていたのをアスラは聞いていた。

大人達は、彼を汚いもののように扱っている。
何故だと聞いたら、イカロスは笑った。

「彼等は馬鹿だから」

そんなはずはない。
彼等は一流の大学を出て、さらにふるいに掛けられた優秀な人材ばかりだ。

アスラには嘲るように告げたイカロスの言葉が理解出来なかったが、そんなことはアスラにとってどうでもいいことのひとつだ。

そんなことを思い出しながら、アスラは自分に声を掛けた少年をまじまじと見た。

声を聞くのは初めてだった気がする。
少し掠れた低い声だ。

顔は名前の通り、アジア系の顔だ。
適度に焼けた肌は黄色で、濃紺の髪に細く吊りあがった瞳は、まるで世界を嘲笑っているようだ。

「……何か用か?」
「あんたの目、氷みてぇ」

馬鹿にされているのだろうか、されているのだろう。
彼は笑った。

少なからずこれは挑発だ。

「なあ、あんただろ?次期元帥候補のアスラってのは」
「……そうだ」
「知ってると思うけど、俺は孫 玉裁。これから宜しくな」
「……分かった、覚えておこう」

アスラがそのまま踵を返そうとすると、玉裁は慌てたようにアスラを呼び止めてその肩を掴んだ。

その時、アスラは僅かながらも驚いた。
自分に抵抗なく触れる者など、そう多くはない。

気安く触れるのは、イカロスやガルーダ。
母ですら、滅多に触れさせてはくれない。
同じ使徒の大人達ですら、アスラから距離を置いている。

「一応俺等仲間だろ?そう素っ気なくすんなよ」
「……」

アスラは、返す言葉に困った。
こんなときに、どう返していいのか分からない。

「ほら、あんたにこれやるよ」

玉裁は、手にしていた箱の中から濃茶の虫を取り出して差し出した。

「……虫?」

アスラの呟きに、玉裁がぴくりと片眉を吊り上げる。
そして、僅かに顔を伏せた玉裁の口元が意地悪く笑ったことを、見たこともない虫を観察していたアスラは気付かなかった。

「知らねぇの?これ、"カブトムシ"って言うすげぇ珍しい虫なんだぜ?」
「……そうなのか」
「もっと驚けよ、表情の乏しい奴だな」
「……」
「ほら、特別に箱の中の奴も全部やるからちゃんと世話しろよ」
「あっ……」

取り出していた一匹を箱に戻してアスラに箱ごと押し付けると、玉裁は手を振りながら走り去っていく。

虫など興味はない。
世話などしたこともない。

だが、アスラは箱の中を見下ろした。
箱の中では、"カブトムシ"が元気に歩き回っている。

(いい奴、なのかもしれない……)

アスラはそんなことを思っていた。

「アスラ君、こんなところにいたのねー。撮影の時間よ、モンロー議員がお待ちかねよー、早くいらっしゃい」
「!」

遠くから自分を呼びに来た世話役の言葉に、アスラは嬉々として振り返る。

母は常に忙しく、今回は一ヶ月ほど会っていない。
緊張していつも上手く話せないが、愛して止まない肉親だ。

「あら、なあに?その箱。昆虫採集してたの?」
「はい、カブトムシというそうです」
「カブトムシ!珍しい虫よね。よかったわね」

主にアスラの世話をしている女は、にこにこと微笑む。

(彼の言うことは本当だったんだ……)

疑っていたわけではないのだが、アスラの中で玉裁がますます好印象になった。

「そうだ、モンロー議員に見せてさしあげたら?」

女が名案とばかりに告げ、あまりにも嬉しそうに微笑むので、アスラは「はい」と頷き返す。
「ちゃんと子供らしいところもあるのね」と、一人ごちりながら微笑む女の言葉に、少々心外だと思いながらも、くすぐったいような照れを感じ、アスラは僅かに顔を俯かせた。

撮影スタジオがある建物に入ると、大人達と話をしていたアルテナが周囲に声を掛けられ、アスラのほうへと振り返る。
アルテナはアスラの姿を瞳に映すと、いつもと変わらず見惚れるような美しい微笑を浮かべた。

「アスラ、久しぶりですね。元気にしていましたか?」
「はい、母上」

母は美しく聡明だ。
多くの者に愛される、アスラの誇りだった。

いけないと分かっていても、嬉しさについつい顔が緩んでしまう。

「あら、アスラ。その箱はなんですか?」
「これは……仲間に、もらいました」
「イカロス?それともガルーダかしら?」
「いえ、新しく来た、玉裁という者です」
「ああ……」

少しだけ、母の声が低くなった気がした。
アスラは自分の発言の何かが母の気に触ったのかと不安になり、アルテナの顔を見上げた。

すると、アルテナは穏やかに微笑む。

「アスラ、あなたは次期元帥なのだから、他の仲間と信頼関係を築く事はとても大切なことです。ですがアスラ、誰が信用出来る相手か、見極める目を養うことも大切ですよ」
「孫 玉裁は信用できない相手ですか?皆は何故、彼を嫌うのでしょう?彼は私に珍しい昆虫を沢山くれました」
「そうではありませんよ。誤解しないで、アスラ。彼のことを言っているのではないのです」

アルテナはアスラの前に膝を折ってしゃがみ込み、アスラの顔を覗き込むようにして顔を曇らせた。

「あなたがそう思ったのならば、彼はいい人なのでしょう。ですが、中には好意の裏側に悪意を隠している者も居るのです。それを覚えておいてね、アスラ」

母が微笑む。
いつもテレビや写真越しに見る、聖母のような微笑で……。

吊られるように、アスラは幸せな気分で微笑みを浮かべた。

母が自分に向けて微笑む。
それだけで至福を感じるほどに嬉しい。

微笑ましいだけでなく、立っているだけで絵になる親子の姿に、周囲も吊られて顔を綻ばせ、親子の会話に耳をそばだてている。

アルテナはにこにこと微笑みながら、アスラへと問い掛けた。

「それで、何の虫を貰ったの?」
「カブトムシ、という虫だと教わりました」
「あら、それは珍しいですね。母にも見せてくれますか?」
「はい!」

アスラは嬉々として箱を開けた。

すると、箱の中にいた虫達が一斉に……それこそ我先にと、スタジオの中へと飛び立った。
濃茶でテラテラとした艶やかな羽に、長い二本の触覚。

聖母の如き微笑みを浮かべていたアルテナの喉からは、「ひっ」と引き攣った音が漏れ、次の瞬間には声にならない悲鳴と雄たけびがスタジオ内に響き渡った。

「きゃーきゃーきゃー!!いやぁぁああ、ゴーキーブーリィィイ!!?」

そう、玉裁がアスラに渡した虫は、世間一般にはゴキブリと言われ、忌み嫌われる虫だった。

尻餅を付いたアルテナが、次の瞬間には叫びながらアスラに背を向けて逃げ出す。

「うそ、ゴキブリ!!」
「きゃぁぁああああ!こっちこないでー!!」
「いやあぁぁあぁぁああ!?」

中に居た他の女性スタッフが手にしていた道具を投げ捨てて悲鳴をあげ、機材を薙ぎ倒して逃げ回る。
男性スタッフ達は周囲を落ち着かせようとしてみたり、はたまた本でゴキブリを殺そうとしてみたり、さらには女性に混じって外に逃げ出す者達で、入り口には人が人を押し退け合う、まさに地獄絵図のような光景が広がっている。

「……」

アスラの頭に飛び回り疲れたゴキブリが着地し、触覚をもそもそと動かす。
だが、逃げることに夢中な大人達にとってはどうでもいいことだ。

ゴキブリ?
この虫は、カブトムシでは?
そもそも、ゴキブリとはなんだろう?

当時、幼く無知であった故に、アスラは悲鳴をあげながら逃げ惑う大人達の姿をきょとんとした面持ちで見守っていた。


「っていうことがあったよね」


けたけたと笑いながら、イカロスは無言で眉間にしわを刻んでいるアスラへと問い掛けた。

「イカロス……仕事中だ、余計な話はするな」
「あれ、気に触った?怒らない怒らない」

イカロスはソファの背凭れから身を乗り出すようにして、他人事のように不機嫌なアスラの頭を撫でる。
机に腰を下ろすガルーダが、呆れたように軽く肩を竦めた。

「けどさ、なんて皆ゴキブリを嫌うんだろうね。俺は、あの触覚が可愛いと思うけど」

途端に顔を顰めたイカロスが、嫌悪を露わにガルーダに振り返る。

「信じられないなぁ……。俺は時々、君のそういうところを心底嫌だと感じるよ」
「何も真顔でそこまで言うことなくない?」

ガルーダが顔を引き攣らせて返す。
アスラは頭の上で繰り広げられる、兄代わり達の喧嘩を聞きながら、小さくため息を漏らす。

そんなアスラ達の耳に、まるでバッファローの大群が掛けてくるかのような地響きが聞こえてくる。
それから少し遅れ、柚の怒号が静かな廊下を駆け抜けた。

「こんのォ!ろくでなしがァァア!!」

一直線の廊下を、怒声と共に全力で駆け抜けた柚が、勢い良く地面を蹴る。
柚の体が浮いたと思った瞬間、軍靴が廊下を気だるげに歩く目の前の青年の背中に食い込んだ。

グキッっと鈍い音が響くと同時、青年こと孫 玉裁は、歪な呻きと共に壁にめり込む勢いで激突した。

「よくもアンジェを騙したな!あいつはまともに信じて一週間もゴキブリをクワガタだと思って虫かごで飼ってたんだぞ!アンジェに謝れ!本物捕まえて来て詫びんか、甲斐性なし!」
「はんっ!何あいつ、俺の言葉信じたのかよ、マジうけるだろ、それ!馬っ鹿じゃねぇの!」
「馬鹿はいい歳こいて子供を騙して喜んでる貴様だろ!?純情な子供心をたぶらかしよってからに、今日と言う今日は許さん!!」
「バーカ!あんな嘘に騙される方がどうかしてんだよ!」

玉裁は反論と共に笑いながら壁を蹴り、柚の第二撃の拳をすり抜けると、廊下の窓からひらりと飛び出していく。
するとその外に待ち構えた焔が、殺気立った眼光を光らせながら、玉裁に斬りかかった。

「うおっ!?」
「ぎょオォくさァいィ!ぶっ殺す!」

避けられることを予測していたかのように、焔は躊躇いなく、更に玉裁へと踏み込んだ。
体を捻り、寸でのところで刃をかわした玉裁が、数歩よろけながら指を弾くと、口元にふっと強気な笑みを浮かべる。

玉裁の指先から飛ばされた種は地面に着地すると同時、地中から養分を吸い上げて一気に急成長をして、更に踏み込もうとした焔の足に絡み付く。
焔は体に絡みつく蔦に一瞥も向けることなく、蔦を炎で焼き千切りながら玉裁に向けて足を踏み出す。

「死ねェエ!!」
「甘い甘い!」

玉裁は焔の太刀筋を身軽にかわしながら、森の中へと走り去った。

「ちっ!何やってんだ、森に入られたら玉裁に有利だろ!」
「最初に逃がしたのはお前だろ!こうなったら森ごと燃やしてやる!!」
「よし、やれ!今すぐやれ!今日の晩御飯は玉裁の蒸し焼きだ」

窓枠を飛び越えて外に出た柚が、焔と共に勇ましく森へと消えていく。

廊下に顔を出したガルーダは窓枠に組んだ腕の乗せ、森に消えた三人の姿に顔を半眼で見送った。

「うげぇ……今日は玉裁の蒸し焼きだってさ」
「玉裁は結構筋張ってておいしくはないでしょ。柚ちゃんや双子辺りは柔らかそうだよ」

ガルーダの隣に頬杖を付いたイカロスが、いつも通りの穏やかな笑みとともに恐ろしいことを言い放つ。
無言でイカロスの顔を見たガルーダが、向き直りながら長々とため息を漏らした。

「それにしても、アイツも懲りないよなぁ……」
「懲りないというか、成長しないというか……あの後、たっぷりお仕置きしてあげたんだけどね」
「え?何?イカロスもしめたの?俺、知らないであいつボコボコにしちゃったじゃん」
「ああ、俺がやったのはガルーダがやった後の話だから、知らなくて当然」
「あ、なんだ……って、おい!?俺が仕返ししたんだから、それで十分だろ!」
「え?だって仕方ないでしょ?あの後、モンロー議員に怒られたアスラがどれだけ落ち込んだことか……ガルーダの制裁程度じゃ俺の気が済まなかったんだ」
「そりゃ、お前の都合だー!?」

喧騒を他所に、アスラの指が書類を捲る。

廊下から、なにやら叫んでいるガルーダの大きな声が聞こえてくる。
イカロスの声は聞こえてこないので、まるでガルーダが一人で騒いでいるかのようだ。

アスラは書類に目を通し終えると、小さく息を吐いた。

(玉裁か……イカロスが嫌なことを思い出させるから、腹が立ってきたな。それにしても成長しない奴だ)

目を通し終えた書類にサインを走らせると、ソファの背凭れに体重を預け、ぼんやりと天井を見上げる。

今思えば、彼は何故、あんなくだらない悪戯をしたのだろう?

元帥候補である自分に嫉妬をしたのだろうか?
それとも、単に自分が気に入らなかったのか……。

少し前までならば、そんなことはどうでもいいことだった。
考えもしなかっただろう。

疲れたかのように、アスラはゆっくりと瞼を閉ざした。

(……寂しかったのだろうか?)

書類を机の上で纏めると、アスラは顔を窓へと向けた。

(終わったら柚を誘って散歩にでも行こうと思っていたんだが、柚は玉裁の相手で忙しそうだな)

ソファから体を起こし、少し冷えた紅茶のカップを手に取る。
カップの中で揺らぐ琥珀色の液体を、一気に喉に流し込む。

温いわりには、チリリと胸の奥を焦がす熱。

「……ふん」

不機嫌な声が漏れる。

(……今更だが、やることもないので仕方がない)

アスラはカップを、そっと机に戻した。

決して、柚を取られて嫉妬しているわけではないと、アスラは心の中で呟く。

透けるような水色の瞳が瞬きに隠れ、再び姿を現す。

(玉裁でも構ってやるか)

窓から吹き込む穏やかな風が、真っ白なカーテンを揺らした。

慈悲の欠片も感じさせない水色の眼差しが玉裁の逃げ込んだ森を見詰めたまま、長身が音もなく立ち上がる。

それは穏やかな午後の昼下がり――。
紅茶のカップが音を立てて真っ二つに割れ、机の上で一方的なゴングを鳴らした。





―END―